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2018年9月

2018年9月29日 (土)

9月のD-pca研究会-専修念仏-

 昨日28日(金)はD-pca研究会。西光義敞『入門真宗カウンセリング』を読み、その後自由なヤリトリをする。読んだところは、第六章「南無阿弥陀仏」、「専修念仏」、「行」、「画期的な革命」のところ。

 浄土門は南無阿弥陀仏が要であるが、先生は、まず、仏教(仏道)において行の意味を押さえられる。悟りを得るには仏道修行が必要である。これは本質的なもの。様々な行がある。その中で、凡夫が仏陀になる行として「念仏」行、さらに口称念仏をはっきりと引き出されてこられたのが法然上人。私たち凡夫にはその道しかないと上人は言い切られた。私たちの日常生活は念仏しやすいように送っていく。それに尽きると。これは仏道門においては画期的なことであった。

 結果、今までは貴族のものであった仏教が武士階級へ、農民を中心とした庶民へと広がっていく。いわば真の日本仏教の展開はここから始まったと言えるだろう。だが、その結果として奈良を中心とした旧勢力や天皇の怖れからくるのだろう怒りを買い、法然門下は流罪や死刑に処せられた。このあたりのいきさつを述べられている。

 読みながら私は自身のことへと思いが向く。この私はどういうご縁か先生や同行さん達に恵まれてお念仏に出遇った。私にとっては本当に目の醒めるような究極の大きな体験であった。今もそれは私の中に生きている。思わぬ時に念仏がこぼれ出てくる。有り難いことである。さらに、これをもっと意識してこちらからお念仏していく時を作って行こうと思った次第である。

 また、同時に、この超シンプルなお念仏に出遇うということがいかに難しいか改めて直面させられることとなった。

 
次回は、10月26日(金)午後1時から4時です。


2018年9月25日 (火)

HONDA S660

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 65歳を機にこの車を購入した。以前から2シーター・オープンスポーツカーが欲しかった。と思っていた時にこれが登場した。しかも、軽規格で・・・。かねがね小さくて質のよい車が欲しかった。なにもかもうまいタイミングで登場したものだ。乗ってみると小気味よくてほんとよろしい。

 とはいえ、シャシー剛性がとても高いのでサスペンションの質を上げた方がさらによくバランスするなと思った。ということで、2年かけて順次、サスペンションキット、ブレーキを付け替えていった。ブランドはモデューロ。そして、この4月にめでたくホイールもモデューロに交換した。

 結果は・・・。すごい。別の車のようになった。乗り心地はさらによくなり、コーナーは思った通りに綺麗に曲がっていく。ブレーキも思った通りにかかる。ほんと心地よい軽い走りがしてとてもいいのだ。最近、全体にあたりがついてきたのかさらによくなったような気がする。

 スポイラーは例の約75km/hで自動的に上昇する奴だ。軽自動車に?ま、ご愛敬で付けたのだが、これが思ったよりもすごく効果をあげている。全体をグレードアップしたらさらにその効果がよくわかるようになった。試しに低速から上げてみるが乗り心地が悪くなってよくない。70kmを過ぎて上がると俄然安定感が増す。そのまま速度をさらに上げていってもぴったりと張り付いてすごく安定して走るのに驚く。最近、代車でそれが着いていないものに乗ったがその効果を逆に感じとることが出来た。ひょっとして軽自動車だからこそその効果があるのかもしれない。

 エンジンは64馬力。軽自動車自主規制のままだ。低出力?確かに数値的には。しかし、走らせてみると速い。出だしはいいし、坂道なんてなんのその。低回転からターボが効いてトルクが十分に出る。CVT仕様。パドルで走らせるとびっくりするほど速い。特に中間からの伸びのある加速がいい。ターボにはCVTが合っていると思う。街中では十分どころか速すぎる。代車でマニュアルに乗ったがエンジン出力のおいしいところを合わせるにはかえって難しいように思った。

 ますます私の体になじんで行く気がする。もうこれはいわゆる軽自動車ではない。軽の枠に収めた高品質スモール・スポーツカーだ。オプションとしてはエアロ・パーツ装着がまだあるが当面これで十分だ。むしろモデューロXではない自分の車が出来たという感じだ。

 西播磨の道は信号が少なくて曲がりくねっている。道路は細い。まさにこの車にうってつけである。天気のよいときにトップを開けて走る時の爽快感はなんともいえない。


イスラエルの友人との会話

 昨日イスラエルの友人ヤコブさんとスカイプで会話した。彼と始めて出会ったのはもう6年前になる。京都訪問に来られていてその時に出会い、案内をした。2人の共通点はイギリスの仏教徒デイビッド・ブレイジャーさんである。ブレイジャーさんとは2006年に京都で始めて出会った。西光義敞先生との対談が行われた時である。Yさんはそのブレイジャーさんから仏教(特に浄土教)と心理療法を学ばれている。そのつながりから私に連絡を下さり、京都で出会うことになった。

 Facebookでのやりとりを続けていて昨日はひょんなことからスカイプで話したいということになった。まさに6年ぶりの出会いである。遠いイスラエルと日本が今ここで画面を通してお会いすることになる。まるでそこにおられるようだ。なんとも不思議な感覚である。

 話は、真宗と心理療法に関すること。両者の位置づけはどうなっているかという疑問である。「心理療法(特にPCA)人間に関心を持っている。一方親鸞の関心は阿弥陀仏の本願にある。そこにどういう出会いがあるか」というのがYさんの疑問だ。そう、ここが大事なところだ。私は真宗も個人を扱っているとかねがね思っているし、まさに、今ここに私の中に顕現している。イキイキと生きている。真宗は決して教義や思想として存在しているものではない。こんなことを私の例を通して話した。また、親鸞さんの書かれたものは一見教義について書かれているようであるが、そこには親鸞さんご自身の法に出遇われ、仏陀になることが定まった止めどもない喜び・悦びの表現でもある。歎異抄の「親鸞一人がためなりけり」という言葉を振り返り、お話をした。すごいことにYさんはこの一文を知っておられる。

 心理療法の目的である自らの体験過程に開かれることについて、本願に出遇うことについての話にも及び、本願に出遇うことは自らの体験過程に出会うことよりもさらに根本的なことであることも身振りを交えながら話した。

 なにかが交流した感じがした。

 その後は、奥様のオルナ様にも久々に会い、お孫さん達も紹介していただいた。3人のとてもキュートな子ども達を見ることは本当に楽しかった。もちろん私の妻もそこに居合わせた。

 いやはや、とても不思議な瞬間。改めて不思議なご縁を思う。6年前に京都、美作の誕生寺を私たち夫婦と一緒に訪れた想い出が蘇ってきた。同時に、私の中に常に働いているお念仏の働きにも改めて思いをいたした。


2018年9月21日 (金)

念仏との出遇い-私の一大事

 30年ぐらい前になるかな。ある先生の本を読んだ時、「自分の人生で一番よかったことは、良き妻に出会った事とお念仏に出遇ったことだ」と書かれていました。この時、奥様に出会われてよかったことはわかるけれど、お念仏に出遇うことがそんなにすごいことなのか、もう一つよくわかりませんでした。えっ、「なんまんだぶつ」ってそんなにすごいことなの。ほんま?というような具合です。それが今ではとてもよくわからせていただきます。

  お念仏に出遇うということは、自己の極重悪人の姿(真理に暗い)をしっかりと見せてもらう事であり、同時に、その私に向かっている弥陀仏の本願力の尊さに本当に頭の下がることでありました。このあたりの心境を言葉で表すのはとてもむずかしいのですが、我が身に徹到する体験でした。もうとてつもなく身にあまるようなもったいないことなのです。とはいえ、決して神秘的な体験ではありません。が、理性だけでわかる体験でもありません。スッキリとああそういうことだったのかと道理が届くひるがえりの体験でした。ほんと言葉でいうのは難しいですが・・・。

  それ以来、いろいろ揺れたり不平不満を言う私ですけれど、終始一貫して泉の如く暖かい歓びが底に流れている自分を思います。我が身に向かう本願力の大きな働きにいつも振り返らせていただくのです。これからどんな形になるかわかりませんが、この生を終える時、ますますそれが輝くことも思わせていただきます。これは本当にそう思わせてもらうのです。すごいことです。

なもあみだぶつ

2018年9月 8日 (土)

PCAと仏道(聴聞)、その洞察・気づきの決定的な違い

 PCAも仏道(聴聞、つまり求道)も気づき、洞察の深まりという点では共通点があると書いたが、同時に、両者には決定的な違いがある。

 PCAの気づき、洞察は自己の内から浮かび上がってくるという特徴があるし、そこに焦点を置いている。つまり、内から外。だが、聴聞(求道)はそうではない。外から内へというプロセスを取る。釈尊の悟りから明らかになった真理を聞くということになる。それらは教法という形で私たちに与えられていて、経、経論そして人を通して出言してくる。これを聞きひらき、わが身に照らし合わせて、その姿を諦かに観るというプロセスを取る。

 といっても、外と内とはまったく別物ではない。与えられている教法は自らの姿をおいて他にはない。そのものである。ただ、私たちにはそれらを簡単に洞察できるほどの智慧はない。自分の中からでてくるものはあくまで分別の浅い知恵でしかない。だから見かけは外にあるように見える。そこを超えて真の自己洞察に至るには外に見える教法を訪ねていくことによって得られる。つまり、鏡が必要なわけである。そして、その洞察は超越、超える、転じるという姿を取る。真宗でいえば廻心である。これが仏道(聴聞、つまり求道)の大きな特徴である。

 なかなか言葉にするのは難しい。特にあの転じる瞬間の表現は難しい。

 とはいえ、PCAが外からの洞察をまったく考慮していないということはない。特に、「学習者中心教育」の探究がそうである。人の関心には内から外へ向かうという傾向がある。すべての人が本来的にもっている傾向である。知的好奇心がそのよい例である。そして、それがどんな心理的風土の時によりよく解放されるかについて探究されてきた。これは仏道求道の方からもとても有意義な探究であり、しっかりと関心を向ける必要がある。

関連ページ→PCAと仏道(特に真宗聴聞)との共通点

2018年9月 6日 (木)

モスクワでのカンファレンス

 この10月始めにモスクワで開かれる「ロシア人間中心のアプローチ協会」のカンファレンスに呼んでいただきました。私が行うワークショップの案内文の日本語草稿を載せます。

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日本文化の中での私のPCA学習体験の共有-エクササイズの紹介を通して-

 私がPCAに出会ったのは1973年でした。大学1年生の時です。恩師西光義敞先生に出会ったのがきっかけです。その当時、日本にはカール・ロジャーズの非指示的療法・来談者中心療法が入ってきていてとても熱狂的にそれを学習しているときでした。沢山のワークショップやエンカウンターグループが開かれていました。参加者は教員、社会福祉事業従事者、企業人、学生、はたまた主婦などとても幅広い人たちでした。100人近くの人たちが一同に集まり学習をしていました。そのやり方はまさに学習者中心。本当に非指示的に始まり、試行錯誤しながらグループを作ったりして主体的に動いていくところに大きな特徴がありました。私もその中にあってただただ感動していました。困惑あり、発見あり、参加者との深い出会いありと私の人生にとってとても大きな出会いとなりました。すごい熱気がありました。その時の感じを今もよく憶えています。私の学習は他の仕事を続けながら10年以上続き、その中からひとつひとつを体得していったように思います。その後、私はロスアンジェルスのオルターナティブ・スクール"Play Mountain Place"に渡り、自由の教育を体験的に学ぶことになり、帰国後しばらくして国際PCAフォーラムに出会い、学習の場は国際的になっていきましたが、その基礎は当時の日本での学習にあるなと今思います。

 前述しましたようにその学習方法は参加者主体の自由なグループ体験が基本ですが、時には、いくつかのエクササイズを通して学習するものもありました。如是我聞ゲーム(フィードバック・ゲーム)、ミニ・カウンセリング、3人一組で行うエンパシー・ラボと名付けられているものです。おそらくどの国でもこれらの演習は行われていると思いますが、如是我聞ゲームというのはひょっとして日本独自のものではないかなとも思っています。皆さんの感想を聞きたいところです。その本旨は、受容、共感、聞く態度の体験学習というところにあるかと思います。

 今回のワークショップではこれらの学習方法を体験的に紹介したいと思っています。時間の関係でまずはこのフィードバック・ゲームに絞って紹介することとなるかと思います。一緒に体験したいと思っています。さらに、時間があれば15分から30分程のデモンストレーション面接が行えたらと思っています。

 どんな出会いが起きるかとても楽しみにしています。
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