PCAと仏道(聴聞)、その洞察・気づきの決定的な違い
PCAも仏道(聴聞、つまり求道)も気づき、洞察の深まりという点では共通点があると書いたが、同時に、両者には決定的な違いがある。
PCAの気づき、洞察は自己の内から浮かび上がってくるという特徴があるし、そこに焦点を置いている。つまり、内から外。だが、聴聞(求道)はそうではない。外から内へというプロセスを取る。釈尊の悟りから明らかになった真理を聞くということになる。それらは教法という形で私たちに与えられていて、経、経論そして人を通して出言してくる。これを聞きひらき、わが身に照らし合わせて、その姿を諦かに観るというプロセスを取る。
といっても、外と内とはまったく別物ではない。与えられている教法は自らの姿をおいて他にはない。そのものである。ただ、私たちにはそれらを簡単に洞察できるほどの智慧はない。自分の中からでてくるものはあくまで分別の浅い知恵でしかない。だから見かけは外にあるように見える。そこを超えて真の自己洞察に至るには外に見える教法を訪ねていくことによって得られる。つまり、鏡が必要なわけである。そして、その洞察は超越、超える、転じるという姿を取る。真宗でいえば廻心である。これが仏道(聴聞、つまり求道)の大きな特徴である。
なかなか言葉にするのは難しい。特にあの転じる瞬間の表現は難しい。
とはいえ、PCAが外からの洞察をまったく考慮していないということはない。特に、「学習者中心教育」の探究がそうである。人の関心には内から外へ向かうという傾向がある。すべての人が本来的にもっている傾向である。知的好奇心がそのよい例である。そして、それがどんな心理的風土の時によりよく解放されるかについて探究されてきた。これは仏道求道の方からもとても有意義な探究であり、しっかりと関心を向ける必要がある。
関連ページ→PCAと仏道(特に真宗聴聞)との共通点
PCAの気づき、洞察は自己の内から浮かび上がってくるという特徴があるし、そこに焦点を置いている。つまり、内から外。だが、聴聞(求道)はそうではない。外から内へというプロセスを取る。釈尊の悟りから明らかになった真理を聞くということになる。それらは教法という形で私たちに与えられていて、経、経論そして人を通して出言してくる。これを聞きひらき、わが身に照らし合わせて、その姿を諦かに観るというプロセスを取る。
といっても、外と内とはまったく別物ではない。与えられている教法は自らの姿をおいて他にはない。そのものである。ただ、私たちにはそれらを簡単に洞察できるほどの智慧はない。自分の中からでてくるものはあくまで分別の浅い知恵でしかない。だから見かけは外にあるように見える。そこを超えて真の自己洞察に至るには外に見える教法を訪ねていくことによって得られる。つまり、鏡が必要なわけである。そして、その洞察は超越、超える、転じるという姿を取る。真宗でいえば廻心である。これが仏道(聴聞、つまり求道)の大きな特徴である。
なかなか言葉にするのは難しい。特にあの転じる瞬間の表現は難しい。
とはいえ、PCAが外からの洞察をまったく考慮していないということはない。特に、「学習者中心教育」の探究がそうである。人の関心には内から外へ向かうという傾向がある。すべての人が本来的にもっている傾向である。知的好奇心がそのよい例である。そして、それがどんな心理的風土の時によりよく解放されるかについて探究されてきた。これは仏道求道の方からもとても有意義な探究であり、しっかりと関心を向ける必要がある。
関連ページ→PCAと仏道(特に真宗聴聞)との共通点
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