念仏との出遇い-私の一大事
30年ぐらい前になるかな。ある先生の本を読んだ時、「自分の人生で一番よかったことは、良き妻に出会った事とお念仏に出遇ったことだ」と書かれていました。この時、奥様に出会われてよかったことはわかるけれど、お念仏に出遇うことがそんなにすごいことなのか、もう一つよくわかりませんでした。えっ、「なんまんだぶつ」ってそんなにすごいことなの。ほんま?というような具合です。それが今ではとてもよくわからせていただきます。
お念仏に出遇うということは、自己の極重悪人の姿(真理に暗い)をしっかりと見せてもらう事であり、同時に、その私に向かっている弥陀仏の本願力の尊さに本当に頭の下がることでありました。このあたりの心境を言葉で表すのはとてもむずかしいのですが、我が身に徹到する体験でした。もうとてつもなく身にあまるようなもったいないことなのです。とはいえ、決して神秘的な体験ではありません。が、理性だけでわかる体験でもありません。スッキリとああそういうことだったのかと道理が届くひるがえりの体験でした。ほんと言葉でいうのは難しいですが・・・。
それ以来、いろいろ揺れたり不平不満を言う私ですけれど、終始一貫して泉の如く暖かい歓びが底に流れている自分を思います。我が身に向かう本願力の大きな働きにいつも振り返らせていただくのです。これからどんな形になるかわかりませんが、この生を終える時、ますますそれが輝くことも思わせていただきます。これは本当にそう思わせてもらうのです。すごいことです。
なもあみだぶつ
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