聖典講座-観無量寿経第八観
一昨日は聖典講座。観無量寿経を頂く。浄土往生のための定善十三巻。第八観、像観を頂く。浄土(依報)からいよいよ弥陀仏(正報)そのものの観を行っていく。ただし、いきなりは難しいので像からいただいていくという観法。詳しくその方法が示されていく。(『現代語訳浄土三部経』 本願寺刊P.180-182)。
その前に釈尊はなぜ仏を観ずることが浄土往生につながるのかを示される。諸仏は法界身で私たちの世界に入り満ちて下さるからその仏を心に描くということはそのこころが仏となるということなのである。「まことに智慧が海のように広く深い仏がたは、人々の心にしたがって現れて下さるのである。だからそなたたちはひたすら阿弥陀仏に思いをかけて、はっきりと思い描くがよい(P.180)」。
ここで、法界身ということが取り上げられた。善導様までの聖道の諸氏がたはこれを法性身と捉えられた、しかし、善導さまはこの法界を衆生界と捉えられそこに働きかける仏と頂かれた。つまり、「衆生界を化益される仏身」である。ここはとても印象的であった。引き込まれるような思いだった。法性から衆生界(私)に来て下さり働きかけて下さらなかったらこの私にはとてもとてもとっかかりようがないのである。ここに衆生往生の道が開かれていくのだ。親鸞様はさらにこの仏身を阿弥陀如来と頂かれていく。まさに「善導獨明佛正意」である。正信偈ではここから節が変わるのはこのことだ。
ところが、ところが。まず手始めに仏像から観る、仏から働きかけて下さるいうがそれすらも私には到底出来ない。そもそもそれ以前の第一観、特に第二観からお手上げだ。気が散ってしまい集中出来ない。かつての祖師方はこれが出来ていったのであろう。なにもかもが違う。祖師方の力と努力は命をかけたものでさぞかしすごかったことであろう。さらに韋提希夫人は凡夫の代表といわれるけれどそれでもその観法がお出来になったというのはますますもってすごい。仏さまのお力を借りてとおっしゃるがそれでもすごい。
このようなすごいことが後に南無阿弥陀仏という口称念仏として差し出されて来るということがどれだけすごいことか。南無阿弥陀仏にはそれだけの功徳がこもっているのである。そのことをなぞらせて頂いたと思う。もっともあくまでその一端ということなのであろうが。それでもすごい。その力に私の身は打たれるのである。
なんか言葉にするのは難しい。もどかしい気もする。けれども身全体ではっきりと打たれることには間違いはない。そこにウンもスーもハイもないのである。本物は本物なのだ。満ち足りた思いである。南無阿弥陀仏。
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