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2019年1月21日 (月)

1月のD-pca研究会-聞即信

 先週1月18日(土)は京都にてD-pca研究会。西光義敞『入門真宗カウンセリング』の輪読と、月末にCSPで報告する内容について話させていただいた。もちろん、それぞれの自分のところとのヤリトリを通してである。

 輪読は、第7章「聞即信」に入り、前半数節、「現在完了進行形」、「聞即信」の節を読む。少し前に話された「人身受け難し、今、すでに受く、仏法聞き難し今すでに聞く」を受けて、その時の参加者とのやりとりが記されているところである。

 これは禮讃文(三帰依文)の始まりである。そもそも「人身(にんじん)」という私たちの理屈では見えない世界を表す言葉から始まるのでここでまず困らされるのである。人身をなぜ(じんしん)と読ませないのか。これは六道の中の「人(にん)」を表す言葉だからである。そもそもそこには三世因果の道理が表されている。私たちの目や耳、頭脳は目に見えるものしか相手にしない根本傾向があるので、ここで行き詰まってしまうのである。それは逆に仏法の仏法たる所以の言葉である。なのでこの文言は仏教徒がとても大事にする言葉なのだ。これを
読誦するのは仏教徒の根本中の根本であるわけだ。聴聞上のとても大事な姿勢や真宗安心の要中の要について西光義敞先生は述べられている。

 話し合いはここを廻る。聴聞上の大事な姿勢や真宗安心の要でもあるとても本質的なことを話しあっているのは確かである。が、なかなかかみ合わないしんどさもそこから出てくる。毎回、鍛えられる私である。ともかく、このように思うことをそのまま出し合い、すりあわせていくことの大事さも同時に思う。

 私にはとても深く味合わされた先生の言葉があるのでそれを引用させていただく。この「警戒心」にもっと敏感になる必要があるな。


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 そんなうろうろしないですぐ帰ってこいと言わずにおれないのが親(阿弥陀仏)だけれども、残念ながらわれわれ迷い苦しむ衆生というのは、仏さまの言葉をじかに受けとれるほど素直でない。境涯が隔絶し過ぎているから仏の言葉というものが信じられないわけです。聞いても聞いても全部疑い心で、「けれども」「しかし」、「ハウエバー・バット」、そんなことあり得るだろうかというて、うって返す、反発する、ためらう、逃げ腰になるなどして受けとらない。

 親子の心の断絶が大きすぎるから、今度は隔絶したところを埋める努力・苦労がいる。親(阿弥陀仏)の配慮・苦心はそこへ移るわけです。だから使者を遣わすとか、遣わす場合でもできるだけ本人のいまいるところにピッタリという形で寄り添っていくということがなければ、警戒心を起こします。まあ詳しくは法華経「長者窮子の喩え」を読んでいただけたらいいのですが、苦心惨憺なわけです。(p.154) (改行は私)
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