メモ:D-pcaでは「育つ」に二重の意味がある
もちろんこの二つは連続ではなく、超越、廻心、転ずるという関係ではあるが。転じさせて見せようというのも本願力のとてもとても大きな働きだからだ。「育て」、「転じ」させて見せようというまことに大きな働きなのである。
そうして、「転」が起きると私の中に南無阿弥陀仏が飛び込むことになり、その主になるという一元、二元論を超えた関係になる。機法一体、絶対矛盾の自己同一という言葉がこれを表していると思う。
これはまた別の角度からも言える。人には「一致」の方向に向かおうとする潜在力が存在する。「悟り」はもっとも深い意味での「一致」と言えようが、浄土門(特に真宗)では外(本願力)からの働きかけにより、本来の自己にめざめさせ、もどさせようという働きがあるので、このあたりが少し複雑である。
西光義敞先生の以下の文を読んでいて閃いた。そうか、先生のおっしゃっていた「育ち合う人間関係」にはこの二つの意味が込められていたのだ。
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「先ほど長者窮子でいったら、法はすごく尊大な邸宅を建てて無限の財宝なんですけれど、それを受けとる方の機が熟してないために、受けとることが出来ないし、渡すことができないわけです。しかし渡しきれなかったら、法の方の働きが不充分。どんなに財産を作っても子どもに渡らなかったら、法の意味がないわけです。(改行山下)
だから今度は、法はその機根を、法を受けとれる機に整えるために働く。機が法を受けとる力量を高めていくということも、その法の働きなわけです。自分ひとりの力でだめなら、考えられるあらゆる手当を尽くして、受けとらせよう、受けとることができるだけのものに育てていくという働きがあります。法には。(『入門・真宗カウンセリング』p.154)」
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