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2019年3月25日 (月)

3月月例D-pca研究会-つまらぬというは小さき知恵袋

 3月22日(金)は、月例D-pca研究会。遠方からもお越し下さっている。西光義敞先生『入門真宗カウンセリング』札幌カウンセリング研究会編の輪読、自由討議を行う。

 輪読は、(七)聞即信の「大海の水と杓子の水」の項を読む。「仏法聞き難し今すでに受く」を聞即信にまで受け取り、最終項になる。

 輪読を通しての私の学びはこうである。仏法は限りなく広く、深い智慧。それを自分の狭い頭を中心にして理解していこうとしてもダメだ。経典の言葉は悟った人が悟りの境地から出て来た言葉だから仏法を自分の枠組みだけで理解しようとして、つまらないとかここはおかしいという姿勢で取り組んでいくのはダメだ。自分にとってわからないところにはとても大きな意味がある。むしろそこに焦点を当てて体読していくことが大事である。生老病死の生苦しかり、後生の一大事しかり、六道輪廻しかりである。ここに核心がある。聴聞上の要中の要の姿勢を言っておられる。先生の言葉から引用させていただく。

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 「いわばそういう手持ちの小さな杓子を基準にして大海の水のごとき経典を読んでみて、その範囲で分かったことだけを分かったと思ったり、つまらんと軽く見たり、こんな馬鹿なと言うて読み捨てるというようでは仏法を学んだことにはなりません。それは経典というものは悟った人が悟りの境地をいろんな形で説いているわけですから。それを手がかりにして、仏の世界に入っていこうと思ったら、海の水の方が絶対的なんであって、計っている杓子の水っていうのは、私の力量の大きさの杓子でしかないわけです。その杓子ですくって大海の水というのはそれたものだなと言うてるのでは、その仏の智慧を、慈悲を受けとることにはなってません。

 だから仏法を聞いていくということは、聞けば聞くほど、こちらの頭が賢いようで愚かな頭であった。大きいようで小さな頭でしかなかった、賢いようでアホやったなときづかせていただくこと。(笑)えらい善人のようなツラをしておったけども、善人どころか愚悪の身でしかなかったということを知らされることによって、本当の深い意味でのありのままの私の本性というものを、知らしてもらうんじゃないかなあ。 (間)」(入門・真宗カウンセリングp.161-162)
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 これは、本当に聴聞上の極めて大事な姿勢だ。けれども、自分の姿は自分では分からない。この言葉に接しながらわかったつもりでいて実はそれと正反対のことをしている。いろいろ理屈をつけて仏法をねじ曲げ、馬鹿にしている。これは頭だけではなく、私の「み(身)」全体がそうなのだ。そんな自分全体にどこまで深く気づかせていただくか。そこが要だと思う。

 輪読はこの後(七)四諦・八正道に入り、その序にあたる部分に入って終わる。「ここは本当に分からない。何度も読むけどわからない」という強い思いが表明されたことが心に残った。

 輪読後は、カウンセリングやエンカウンターグループ実践から起きてくる疑問について参加者から提示され、それを味わっていった。特に「再保証」をめぐって質疑が行われた。

 次回は、4月26日(金)午後1時~4時。このページを参照下さい。http://www5f.biglobe.ne.jp/~yamakaz/Dpcakenkyukai.htm

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