法座ー深い宗教的気づきの場ー
先日の日、月はお世話になっている浄土真宗華光会の年次大会があり、京都に泊まっていた。年次大会といっても法座である。浄土真宗の基本の場は法座と呼ばれる場。法話・信仰告白・座談の三要素からなり、名号(念仏)が大柱としてある。そこに身を置き、教えを聞き、私に向かう弥陀の本願力を聞き、私を諦らかにしていく場といえるかな。長い伝統がある。ここ華光会では法話の聞き放しに終わらず車座になって、あるいは寝食をともにしてお互いの届いたところ、味わいを交換する場がふんだんに設けられている。みんな本当にざっくばらんに遠慮することなく心境を出し合う。本当に生き生きとした場だ。
浄土真宗の味わいは本当に深い。煩悩具足の身である、つまり、罪悪生死の迷いの身であることがまざまざと照らし出されるし、それに向かうたゆまない本願の働きを感得するという、とても深い宗教的境地が我が身に訪れるのだ。そのことによって日常生活で揺れながらもいつも立ち返らせていただく土台を頂く。その意味ではもう迷わない身にさせていただく、後生にそうなることが確定しているという根本的な安心感をもって日常生活を送る。罪悪の身でありながら、如来の本願力廻向を我が身にいただき、罪悪の身を転じさせていただいて浄土に往生し、仏陀にならせていただく。そんな思議を超えた世界なのだ。
とはいえ、日常生活を送っていると目先の問題解決や楽しみについつい心を奪われそれが浅いものになってしまう。この法座に身を置くことで改めてその根本を確認し、立ち戻らせていただく。そんな場だなと改めて思う。私にとって本当に大きなことであったし、これからもそうあっていくのだ。これに出遇ったことは私の人生において本当に大きなことだった。なもあみだぶつ。
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