相生法林寺納骨堂法要-智慧に照らされて知らされる愚かな私-
E-ワイガヤの後は、地元法林寺納骨堂法要にお参りする。先祖法要というよりは、そのことを縁として仏法に出遇わせていただく、聴聞させていただく、そんな場だ。4日夜座と5日昼座と2座お参りでき、懇親会にも参加できた。
講師は西光義秀師。学生時代から交流させていただいている方だ。もうお互い60を過ぎてしまった。師の本願力廻向によって動かされている熱い思いが伝わってきてこちらも心動かされた。絶えず私に働きかけてくださっている弥陀仏の智慧と慈悲。それに照らしだされてくる自分の迷妄の姿、いや迷妄を迷妄とも思えない姿。それに浸らせていただいた。まことに豊かな時間だった。有り難いことである。上げていただいた弘法大師の次の言葉が身にしみている。
三界(さんがい)の狂人は狂(きょう)せることを知らず
四生(ししょう)の盲者(もうじゃ)は盲なることを識らず
生まれ生まれ生まれ生まれて生の始めに暗く
死に死に死に死んで死の終りに冥し
この狂人、盲者という言葉は使うとき注意を要する言葉だが、これはまさに私(和夫)自身のことを指すし、弘法大師は何を隠そうご自分自身のこととしておっしゃっているのである。仏陀のみが観ることの出来る三世因果の道理を観ることはまったく出来ない私。その意味で愚かな自分なのである、さらにそれが衆生すべてなのだという意味である。その意味、煩悩具足という点ですべて平等なのである。
まさに智慧も何もない私なのである。南無阿弥陀仏。豊かで貴重な週末であった。
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