現代日本仏教のドーナツ化-中心がごっそりと抜けてしまっている-
京都D-pca研究会でのヤリトリをきっかけに現在の日本仏教のあり方について考えさせられることになった。私が出遇ってきたことと現在の仏教現象がズレていると思うのである。それを整理するきっかけになったのが西光義敞先生の「日本仏教のドーナツ化」である。ひとまず次のように分けられている。(西光義敞『わが信心 わが仏道』法蔵館 p.130-132)。私なりの言葉で説明してみたいと思う。
1. 「伽藍仏教」
日本仏教寺院は長い伝統にもとづいてとても立派な伽藍が作られている。世界的に見てもすばらしい。そしてその中に御仏像が備えられている。それらは当時の技術の粋を集められた美術品、工芸品でもある。それを鑑賞するという仏教である。もちろんその伽藍はとても立派で静か。御仏像は美しく落ち着いたお顔をされている。それによって心の落ち着きと感動をもたらすことは確か。
2. 「葬式仏教」
これは説明するまでもない。人々が仏教に接する1番の機会はこれである。これは先祖供養とも結びついている。
3. 「祈祷仏教」
おまじない、占い、お祈りである。御朱印集めもこの中に入る。お祈り、願掛けによって幸せをもたらそうというわけである。
4. 「学問仏教」
仏教を研究することである。経典を前においてそれを客観的、科学的、対照的に研究していこうということだ。これは西洋文化との関わりの中で特に明治以降盛んになった。まさに研究対象である。どちらかというと批判的にみる傾向がある。ここに私は思想・哲学としての仏教も上げておきたい。まさに思想という観点で仏教を見ていく。経典は思想書というわけである。これによって心はとらえられるのだろうか?「主体としての心の問題(西光)」に応えられるのだろうか。
大きくこの4つである。これはまさに卓見で日本での仏教現象について整理するのに役立つ。
もちろん人の願望は様々でこれら4つはそれぞれにそれらに応えているということは言える。仏教の幅の広さだ。1.によって心の静けさと感動は得られるし、2.によって祟りの恐怖からはある程度目を背けることは出来る。そこまでではなくても人の死という厳粛な一面に出会うという意味深い面もある。3.もそうだ。人生の危機に当たってそれなりの対処力をもたらせてくれることも確かだろう。4.も知識欲には応えてくれる。
しかしである。西光先生はこれらは饅頭の皮にすぎないとおっしゃっている。中心のあんこ(餡子)が抜けているのである。現代ではさらにひどくなって中心の抜けたドーナツになってしまったと指摘される。本来の仏教はそうではない。真の心の安楽、悟りをもたらすものである。真宗しかりである。これらには応えられていない。私たちの苦の真の原因をつきとめ、私たちがどうであろうとそこから出離する。そういう道をもたらせてくれるのが仏教である。私でいえば、まさに私の主体的・実存的な魂の渇きに応えてくれるものである。ここが抜けているのが現在の日本仏教の現実ではないのかという指摘である。
私自身のことを思えば、私は「葬式仏教」や「祈祷仏教」を否定しながら「伽藍仏教」や「学問仏教」に関心があり、それによって仏道を求めていくきっかけをもらったことは確かである。しかしながらこれらは本来の仏教ではないということも教えていただいた。西光義敞先生、増井悟朗先生、海野徹雄先生、同行様達との出会いによってである。ほんと寄り道をせずにこの道ひとつに出遇ったのである。これは本当に不思議なことである。
ところが逆にこのことによって饅頭の皮やドーナツのまわりについて知らず知らずのうちに無頓着になってきているのも確かだ。まさに世間の仏教理解はそうなのだ。私がこうだと思って言ったことは多くの人たちとは見事にすれ違う。そんなことをまざまざと思うのである。この実状にしっかりと目を向けていることは重要だと改めて思うのだ。
追記:今回は割愛するが、さらにこの日本仏教の状況では人間の実存欲求に応えようとしている西洋心理療法とも出会えないとされているところもまことに的を射た指摘だと思う(p.132)。
参考文献:西光義敞『我が信心、我が仏道』 法蔵館 2004
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