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2020年10月31日 (土)

10月京都D-pca研究会その3-「信」と「疑」-

 そうしてその弥陀の本願力を「疑う心」、「疑心」がここで問題になってくる。この点について西光先生は明確に具体的に論究されていく。さらに抜粋を続けさせていただく。

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 「けれどもそんなこと私は知りませんね。知らないということは、その、自力の心、はからう心、仏の願力を疑う心が一枚挟まっているんで、それが邪魔しているわが身です。それさえなければ、仏は煩悩具足の凡夫そのまま必ず救うぞと誓っておられるんだから、煩悩具足ということはわかりますと、僕(自分)がそう思うのだったら、煩悩具足のまんま、大きく仏さまに抱かれ、救われていったらいいのですよ。何にも世話ないわけです。それなのにもうひとつわからんって、首をかしげてしまう。わかるもわからんも、わかってもわからんでも、救われるという世界があるんですからね。それはもう徹底的にやさしい易行道なんです。(p.278)」

 「けれども真面目にそんな世界っていわれたら、言葉ではわかるけどわからんなとかね、そんなたやすく救われるはすがないとか、いろいろな思いが湧いてくる。弥陀の本願の力が大きければ大きいほど、大きな疑いがこちらに起こってくるわけです。その疑いの心が邪魔してるんですよというのが、浄土真宗の非常に大きな特色ではないか。(強調文字は筆者p.278)」

 「だから迷いを捨てなさい、煩悩を捨てなさいとは、浄土教系の仏教ではいいません。なぜか。捨てなさいというても、

『凡夫というは無明煩悩われらが身にみちみちて、欲もおほく、いかり、はらだち、そねみ、ねたむこころおほくひまなくして、臨終の一念にいたるまでとどまらず、消えず、たえずと(一念多念文意)』

というわけですから。そういうふうに決めつけた表現になっているのは、仏の方の眼から見た凡夫の姿だからです。それが仏さまからみられた私の真実のありようだとしたら、欲も捨てられない、腹立つ心を抑えていくことも出来ない、煩悩具足の凡夫だということが素直に受けとれたら、その煩悩具足のうえに、弥陀の本願がそのまま及んでいるわけですからね。煩悩具足の凡夫のまんま救われる世界があるわけです。聞即信といったり、煩悩即菩提といったりしている世界はそこをいうわけです。『即』というのは大乗仏教の極地を表す論理だといわれています。(強調文字は筆者p.279)」

 「ところがいくら聞かしてもろうても理屈としてはわかる。けど、というて「けど」をつけて引きずっていってる心が疑う心なんです。だから仏さまの力は最後に、この「けど」を疑う心をなんとかしてとり除きたいという意味でも、私たちに向かって、弥陀の本願は常に働いているわけなんですがね。

そのなんとかして疑いをとり除こうとしていてくださる仏さまの本願力と、その本願力を受けつけない、それを拒絶する心とが、葛藤しながら生きてきているという関係に、仏と人間との関係になっている。ということではないか。(p.279 強調文字は筆者)」

 「だから、はからいを捨てて、疑いを捨てて、信じよとかね、自力を捨てて他力本願に帰せよ、というようなことを、法然上人も親鸞聖人も蓮如上人も、はっきり教え示してくださっているのはそういうことをいっているのだと理解せざるをえないのです。

 はからいを捨てよ、自力の心を捨てよ、疑いの心を捨てよ、ということは、煩悩の心を捨てよ、欲の心を捨てよといっているのではない。その辺の見極めが論理的、実感的に納得できた時にですね、昨日おっしゃったように無根の信が仏さまの方から開かれてくるというのが、浄土真宗の救いの構造でないかというふうに思います。(p.281 強調文字、改行は筆者)

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 なんと!浄土真宗の要中の要のところを実に丁寧に言葉を尽くして表して下さっているではないか!真宗カウンセラー、D-pcaファシリテーターの基底になるところである。南無阿弥陀仏。

 この後、「仏道を歩む」、「面々の御はからいなり」、「質問に答えて」→「法身・応身・報身」、「親鸞一人がためなり」というこれまた味わい深い言及が続いていく。まさに生き生きと生きた仏法に包まれた先生の生き様を感じさせ、思い出させる時間であった。私にとって大きな、大きな出遇いであった。それは今また私の中で生きている。

 なお、研究会の中ではこの味わいについていろんな意見が交わされた。聞法過程を振り返る人、自分のいただきどころを溝さらいし、改めてたどって行かれる人、はたまたこのことに大きな疑念を抱き、教えそのものを否定していく人。馬鹿にする人、曲げていく人、実際、この発言を聞いていることは私にはとてもつらかった。悲しい気持ちになったり、腹立たしくなったりする私であった。とはいえ、各人各様の思いがありのままに出されあった場ではあった。

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