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2020年12月25日 (金)

12月の聖典講座-『御伝鈔』「六角夢想」。聖徳太子に思いをいたす-

 先日の日曜日(20日)は、浄土真宗華光会の聖典講座。『御伝鈔』(4) 上巻第三段「六角夢想(ろっかくむそう)」の講義。連続講座4回目である。このところずっと私の頭の中を去来していた。今言葉に出来てきた感じなので私の味わいを書こうと思う。

 親鸞聖人が六角堂に参籠されていた時にそこの本尊救世観音菩薩が告げられる夢を見られた。聖徳太子は救世観音の垂迹なので聖徳太子の夢を見られたのだ。→御伝鈔  。 「これが真宗が繁昌し念仏が弘まることを前もって表し示したものといえます。(『御伝鈔』本願寺現代語訳)」。

 親鸞聖人が山を下りられ、法然聖人に出遇われ、本願に帰入され、真宗を広める礎となられたその大事な心の動きがここに凝縮されているのだと思う。恵信尼公の消息(手紙)が見つかってから、これが法然聖人に遇われることを後押しされた夢なのか、あるいはすでに法然聖人に出遇われた後、親鸞聖人に起こったことなのか諸説があるようだが、私は本願に帰入されてからとするこの覚如上人の著述どおりに理解していっていいのではないかと思う。親鸞聖人の肚の座りがここに頂けるではないか。

 親鸞聖人は聖徳太子をずっと慕われていた。その重さはとても大きなものだ。思えば比叡山で修行されている時にも太子の著作である三経義疏を読まれていたのではないか。法華経、維摩経、勝鬘経である。聖徳太子はこの経の論釈書を書かれている。在家にありながら仏法を深く求められていたのだ。思えば、維摩経は在家で悟った維摩居士について書かれたものだし、勝鬘経は勝鬘夫人という女性で悟られた方について書かれたものである。まさに聖徳太子は世俗(在家)にあってその政治権力争いのまっただ中にあって血みどろになりながら仏法を求められたのだ。もちろん奥様もおられた。ここに在家の凡夫が仏になる道が開かれていたのである。親鸞聖人が太子をここまで慕われていたのはまさにこの点にあったのではないかと思う。

 この後晩年85才の時にも太子の夢告があり和讃を記されている。何度も何度も親鸞聖人は太子と夢を通して深い精神的交流をなされていたのではないかと思う。そういえば有名な玉虫厨子には立像の阿弥陀像が祀られているではないか。

 この講座を聞きながら私自身のことも思い出していた。私にとっても聖徳太子はとても身近な方だからである。私は大阪八尾市で大きくなった。河内である。ここはまさに太子ゆかりのところである。あの争いとなった弓削(ゆげ)の物部守屋はここが舞台である。大和川沿いに上がっていくと法隆寺がある。車なら40分ぐらいである。また磯長の太子御廟もここからは近い。高校生の頃自転車でよく行ったものだ。父も車で家族でよく連れて行ってくれた。大学受験の頃虚しさに悩まされてしんどかったときにも法隆寺を訪れたことがある。五重塔のお釈迦様の一生が描かれた塑像群がとても心を打った。またあの伽藍の緊張感のある静まりかえった雰囲気にも心を打たれたものだ。社会人になってからもしんどくなった時はよくここを訪れる。最近でも訪れていてその時に玉虫厨子に立像の阿弥陀像が祀られていることを見つけた。

 そうして今住んでいる兵庫県相生市は播磨太子町の隣町である。車なら10分ぐらいでいける。ここに斑鳩寺がある。これがまさに太子ゆかりのお寺なのだ。飛鳥と播磨は古代つながりがあったようで太子はここ播磨の地を推古天皇から賜っている。法隆寺にその記録がある。思えば播磨と飛鳥は海路を使うと簡単に行けるのである。

 太子ゆかりの地で大きくなり、今はここに住んでいる。なんとも不思議な縁を思うのだ。

 ほんといろんな思いが湧いてくる。そんなここしばらくである。
南無阿弥陀仏。 

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