鈴木大拙『日本的霊性』-浄土教(真宗)の「信」が日本的霊性そのものである-
鈴木大拙師『日本的霊性』岩波文庫は本当に面白かった。自覚が深められた。これまた言葉にするのが難しい。それは「信」という深い個人的でありながらも普遍性を持つ体験と関わっているからだ。だから言葉にしないのも勿体ない。ひとまず書き記しておきたい。
霊性。日本人にはなじみのない言葉である。これはsprituality (スピリチュアリティ)の訳語であると思われるが師はそこに独自の視点も含ませている。「無分別智」を指すというのだ。そういう意味では「精神」ともまた違う。それは理念、理想、倫理あるいは意志をも含んでいる。また物質に対する言葉でもある。精神は二元的世界なのである。「何か二つのものがひっきょうずるに二つでなくて一つであり、また一つであってそのまま二つであるということを見るものがなくてはならぬ。これが霊性である。」(p.16)。なんだか禅的でもある。そうなると西洋のspritualityともまた違ってくるかも知れない。まさに日本的霊性だ。
ともかくむずかしいけれどなんだか面白い。そんな印象から始まる。私なりにはこのように捉えている。人は知性、情性、感性を持って生きている。それぞれにふれていくことは人生の醍醐味でもある。けれどもそれだけではどうしても満足しなくてその奥にあるもっと根源的なもの。それらを統一するもの、そんなものにふれたくなる。あるいは出遇いたくなる。それがないとどうもこの心の渇きみたいなものが潤わないのである。これは思春期からの私の課題であった。そんなものを「霊性」と師は呼んでいるのではないかと思う。それが私には真宗、お念仏との出遇いであった。
そんなことを思っていてこの本に出遇ったわけである。7年ぐらい前のことである。これを今回さらに読み直してみて本当に面白かった。師は霊性そのものは普遍的であろうが各民族に固有の霊性というものがあってよいし、それがある。では私達日本人、あるいは日本民族にとってそれは何だろう?なんと師はそれを法然・親鸞両上人によって顕現された浄土教におくのである。2人を分けて捉えることはしないが法然上人の日本的霊性の覚醒は親鸞聖人においてより深く顕現するのであるという。大拙師のことは禅の大家であり、海外にそれを広めた人と捉えていたからこれには驚いたし、深く感動したものだ。そう言えば西光義敞先生と伊藤康善氏との対談(『われらの求道時代』) を読んでいて伊藤康善師が鈴木大拙師は真宗が盛んな能登の門徒に若い頃鍛えられたとおっしゃっていてどこかで心に残っていたことがある。
もちろん大拙師は禅も日本的霊性に含んでいるけれども要は浄土教だという。また神道をそこにはおいていない。ここも面白いところだ。神道は自然賛美であり、そこに豊かさもあるが、心の否定にはいたっていないというのである。否定を契機にしてはじめて深く霊性に目覚めるというのである。「業の重圧を感ずるということにならぬと霊性の存在に触れられない」(p.84)。「『あるがままのある』に対して、ひとたびはそれが強く否定せられて、「ある」が「ない」であるということにならなくてはいけない。」、「霊性的直覚の現前するには、穢れが単なる穢れでなくて、地獄必定の罪業にならなくてはならぬ」(p.125)。
ここにいたって初めて弥陀の無縁の慈悲に出遇うのである。
鎌倉時代にいたってはじめて仏教を縁として本来流れていた日本的霊性がここに目覚めた、顕現したのである。
このようなことが述べられている。本当に興味深い世界である。鈴木大拙師の浄土教理解の深さを思わされるし、世界的視野を思うのである。きっと師は弥陀の本願に出遇うという「廻心」の体験と禅の「見性」とがここで深く統合されているのだと思う。決して理屈でわかるという世界でもないのである。
こんなことで読んでいてとても心が動かされた。そういえば、真宗でいう「信」はまさに自然信仰である日本人の素朴なこころとそこに罪業性を見るというさらに深い洞察とが同居した世界なのだと思う。しかもそれらが外にあるのではなくまさに自分の内面にあるのだ。罪業を作り出すのは自分なのである。また弥陀の無縁の慈悲も信を通してわが内に共に生きるのである。そういう意味でも西洋ではなく日本的なのだと思う。
また、もうひとつ感銘したのは「大地性」である。(p.47-)。霊性は書物を読んで深まって行くものではない。大地と共に生きてこそそこから深まって行くものである。農民と共に暮らした教信沙弥はもとより、親鸞聖人も越後に流され、農民と共に農業にいそしまれたに違いない。その体験がさらに聖人の自覚の深まりを進めたというのである。
この浄土教(真宗)の「信」は本当に深い霊性的自覚の世界であると改めて思う。それをいただいたことは私にとっても一大事であった。今生において日本に生まれたことを幸福だなと改めて思うのである。
なんだか生硬な文章になってしまった。もっとすっきりといいたいところである。ひとまず言葉にしておく。
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