9月相生法林寺での輪読会-「ぶつ」?「ほとけ」?-
これも約一月前のことになる。9月14日(水)は相生法林寺での輪読会。西光義秀師『私のものさし仏のこころ』探求社を読んでいる。読んだところは「仏に成ろうなんて、とても思えない?」(p.16-18)である。以下は輪読会の客観的な報告というより私の中で思ったことについての報告である。
ふと心が動いて私が読みたくなった。さて読み始めて「仏」という言葉が出てくる。世間で言われているように「ほとけ」と読むべきか「ぶつ」と読むべきか・・・。もちろんとっさに出てきたのは「ほとけ」だった。だがちょっと待てよ。親鸞聖人が御和讃の最後で弓削の物部守屋の例をあげ「ほとけ」と読むのは外道であり、残念ながら仏教側の人も正しい意味で使わないときに「ほとけ」と呼んでいると書かれておられるのを思い出した。やはり「ぶつ」と読むことにしよう。そう思った。
正しくはやはり仏陀(Buddha)だ。「悟った人」という意味になる。仏法のことはBuddha Dharma(ブッダダルマ)、省略してDharma(ダルマ)だ。日本語の仏教も仏法も仏陀もここから来ている。ここに大きな意味が込められている。それがいつのまにか日本では「ほとけ」と読むのが広まり、今ではその方が当たり前になっている。
もっとそれが拡散して、「ほとけほっとけ」とか「ほっとけほっとけゴミ屋さん」なんてことになったり・・・。これは仏教伝来の正式年号538年を憶えるための語呂合わせだが・・・。トホホ。とはいえ、「ほとけ=ほどける」という意味で説明されたりもするが・・・。「ほどける」つまり「解脱」だ。
あれ、なんだかこの事で話しが長くなってしまった。本題からそれたかも知れない。とはいえ本題とも確かに関係している。私にもここは様々な思いがめぐるのである。
ことほどさように「仏になる」、「成仏」はある意味分かりにくくなっている。死ぬことを成仏といってしまったりする。やはりここは仏教の要だと改めて思う。真宗もまぎれもなく「仏に成る教え」あるいは「道」なのだ。
私はやはり目覚めた人。迷いを転じて悟りを開いた人、あるゆる苦を出離した人ととりたい。そうしてその場合この人というのは真理(仏法)とひとつなのである。まさに殊勝のお力(ちから)だ。それを目指す教えが仏教であり仏道だ。それは凡夫の私にも間違いなく指し示された道なのだ。
とまあ、私の中では次々と思いが展開した。改めてそこを絶えず私に願われている弥陀の本願のお働きに心をいたした。
話し合いは本当に楽しい。まさにさまざまな御縁で人と仏教とは出遇っていく。心の悩み、日常生活で解決が迫られていく悩み、それはひとそれぞれだ。そういうことを通して仏教を聞こうとしていく。お寺に参る。そんな様々な縁を思い起こさせた。そうして仏陀はその人その人にぴったり合わせて広い広い手立てを差し向けてくださっているのだ。まさに千手観音菩薩様だ。
毎回自由に思いが出し合えるのが貴重で楽しい。普段の法座は聞きっぱなしが多いから・・・。
文献:西光義秀『私のものさし仏のこころ』探求社
次回は、10月14日(金)午後1時半からである。これまた楽しみである。南無阿弥陀仏。
親鸞聖人の御和讃を上げておきたい。ちなみにこの弓削(ゆげ)というところは今の大阪八尾市。私のおおきくなったところのほん近く。まさになじみ深いのである。
(110)
善光寺の如来の
われらをあわれみましまして
なにわのうらにきたります
御名をもしらぬ守屋にて
(111)
そのときほとほりけともうしける
疫癘あるいはこのゆゑと
守屋がたぐひはみなともに
ほとほりけとぞもうしける
(112)
やすくすすめんためにとて
ほとけと守屋がもうすゆゑ
ときの外道みなともに
如来をほとけとさだめたり
(113)
この世の仏法のひとはみな
守屋がことばをもととして
ほとけともうすをたのみにて
僧ぞ法師はいやしめり
(114)
弓削の守屋の大連
邪見きわまりなきゆゑに
よろづのものをすすめんと
やすくほとけともうしけり
親鸞八十八歳御筆
(本願寺注釈聖典P.620)
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