1月法林寺輪読会-どこまで行っても私の事として死を捉えられない私-
昨日は相生法林寺での輪読会。読んでいる本は西光義秀著『私のものさし、仏のこころ』探求社。読んだところは「出る息は、入る息を待たずして、命終わる」(p.27-30)、「遺影が教えてくれること」(p.30-32)。
それにしても死は、あくまで他人事、自分事とは本当に思えない。他人の死に接して心は大きく動くけれど、それでもやっぱりこの自分が死ぬという事には心が行かない。ほんと遠くに追いやっている。そんなことを改めて思った。
中で上げて下さっている蓮如上人「白骨の御文章」。原文にもあたりじっくり読み返した。これは本当に人生の間に何度も直面することをリアルに書いてくださっている。お葬式にはぴったりの御文章だ。そして、一番大事なことはここだ。「はやく後生の一大事を心にかけて。阿弥陀仏を(あみだぶつと)ふかくたのみまゐらせて、念仏まうすべきものなり」。
さらに、以下に行き当たる。
「誰のことか?私のことです。このことがピンとこないということが、三毒の煩悩の『愚痴』です。物事を正しく認識したり判断したり出来ないという私の姿であり、一切の道理に暗いことです。」(p.32)
ここを知らせていただく事、同時にこの私にかけられた弥陀のただ一つの願いを聞かせていただく。ここが肝心だと改めて思う。南無阿弥陀仏。
少しずつ1人1人が打ち解けてきていろんな思いが出し合える。そうして決して世間話に終わるだけでなく肝心なところに目が行っていく。貴重なグループだなと改めて思います。次回2月14日(火)も楽しみです。午後1時半から3時半。
この後自宅に帰ったら雪が降り始め、大雪となりました。
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