播磨国太子町から河内国太子町へ-不思議のご縁-
先日8日(土)朝から急に思い立って河内国上ノ太子叡福寺(えいふくじ)を訪れる。場所は大阪府南河内郡太子町。聖徳太子の御廟だ。私は大阪府八尾市で大きくなったのでここは子どもの頃から縁のあるところだ。よく父がドライブに行っていた。私もよく一緒に着いていった。父は写真が好きでここの写真をよく撮っていた。あの静寂をよく憶えている。さらに高校生になってから自転車で1人で行ったこともある。ちょっとした遠乗りだった。いろんな思い出が蘇るところ。
今回行ってとても印象に残ったのは御廟はもちろんだがそのすぐとなりにある見真堂だ。親鸞さまが祀られている。そしてその間に「廟窟偈(びょうくつげ)」と呼ばれている石碑がある。晩年の太子の言葉が刻まれている。まさにここに阿弥陀仏の誓願のことが述べられている。寺の縁起によると平安時代に発掘されたものだから親鸞さまもきっとこれに接しられたに違いない。最初は19才の時のようである。 縁起では「祈願」されたと述べられている。きっと大きな霊感をもって接しられたに違いない。これがあの夢告となって現れてきたものだと思わずにはいられない。最後は88才の時に参籠され自らの像を刻まれて奉納されている。
(次の偈が刻まれている。→千葉乗隆師の大意文)
聖徳太子廟窟偶
廟窟偶碑
大慈大悲本誓願 愍念衆生如一子
是故方便従西方 誕生片州興正法
我身救世観世音 定慧契女大勢至
生育我身大悲母 西方教主弥陀尊
真如真実本一体 一体現三同一身
辺域化縁亦己盡 還帰西方我浄土
為度末世諸衆生 父母所生血肉身
遺留勝地此廟窟 三骨一廟三尊位
過去七佛法輪處 大乗相応功徳地
一度参詣離悪趣 決定往生極楽界
そう間違いなく聖徳太子は阿弥陀仏、つまり念仏者であったし、きっと信心を賜れたであろうし、親鸞さまもその太子さまを拝まれたに違いない。「世間虚仮、唯仏是真」という御持言はここからくるに間違いない。僭越ながらそう思わせていただく。また親鸞さまの「煩悩具足の凡夫、火宅無常の世界は、よろづのことみなもつてそらごとたはごと、まことあることなきに、ただ念仏のみぞまことにておわします。」はこれとまさに魂の深いところで響き合うのだ。親鸞さまのみが見真と呼ばれているところも意味深い。
そんな強い思いがこの地に立って私の中を廻った。
その場所に子どもの頃から縁のある私にも何か感慨深かった。八尾市には下の太子と呼ばれる大聖勝軍寺がある。ここは太子堂と呼ばれている。そうして物部守屋が住んでいた弓削もここになる。この太子堂もよく訪れた。近くに市民病院があり、急性腎炎を患って中学生の時入院、留年。退院後も高校1年生まで通った。太子堂のバス停で降りる。なんかこのことをよく憶えている。そうして近くに八尾飛行場がある。これも父と一緒によく訪れたのを憶えている。
そうして今住んでいる相生市は揖保郡太子町が隣町だ。ここに斑鳩寺がある。まさに太子ゆかりのところである。播磨太子町から河内太子町へ。なんとも不思議なご縁を思う。そういえばこの日はお釈迦様の誕生日であった。写真をどうぞ。
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