4月のD-pca研究会-共感的:評価を離れたありよう-
先日4月4日(火)はD-pca研究会だった。いつものようにオープニング・ミーティングから始める。輪読を始めていきたいというプランが出る。また日常生活のこと、担当している講座の紹介が分かち合われた。
輪読はカール・ロジャーズ著・畠瀬直子監訳『人間尊重の心理学』の第七章「共感-実存を外側から眺めない関わり方-」である。今月から読み始めることになった。原題は、"A Way of Being" である。1980年に出版されている。これは「カール・ロジャーズといえばこれ」とまでなっているぐらい有名な共感、あるいは共感的理解について書かれた論文である。1975年に書かれている。以下は私の中で起きてきた思いについて書いていく。
まずはタイトル。邦訳では「共感-実存を外側から眺めない関わり方-」となっている。ところが、原文では、"Empathic: An Unappreciated Way of Being"となっている。ここには「実存を外側から眺めない」という言葉の意味はない。この意訳に戸惑った。恐らく訳者も苦労されたことだと思う。
さてここで難しいのが"unappreciated"という言葉の意味だ。辞書などを単純に見てみると「評価されない」ということになる。評価されない(価値を認められない)という意味で訳されたりしている。そうするとここは「共感:評価されない(価値のない)あり方」という意味になってくる。とするとこれはRogersの趣旨からして違う意味になってくる。さてさて・・・?
おそらくこの"un"は「解除する」とか、「はずす」とかの意味に使われていると思われる。例えば"unlock"は「解錠する」という意味になるし、"unloaded" は「荷物をおろす」という意味で使われている。ということでここは「評価をはずした」という意味ではないかと思われる。つまり「共感的:評価をはずしたありよう」ということだ。それは「良いとか悪いとか評価することをしない在りよう」ということだ。「善し悪しをはずしてそのまま存在を内側から見ていく」ということになるのではないかと思う。こう理解するとこの章全体の意味がより明らかになってくると思う。
もっともRogersは共感的を「評価されてこなかったあり方」という意味で言った可能性もないわけではないが・・。
今回読んだのは、その第1節「私の驚き」、第2節「現代の要請」だ(p.128-131)。ここでのRogersの主旨は以下の通り。
共感的理解を提唱したのはRogersだがその後これが技法として誤解されてしまって、「非指示的療法は、クライエントの感情を反射していく技法である」と理解されてしまった。これには大変動揺して共感について話さなくなってしまった。ところが近年(1975頃)になって他のアプローチ、すなわち「治療者は権威者であり、状況を操作」するアプローチから共感の意味が評価されて重要視されるようになってきた。
ここでいう権威主義的なアプローチというのは、ゲシュタルト・セラピー、心理劇、プライマル・セラピー、バイオ・フィードバック、論理セラピー、交流分析をRogersはあげている。「米国では過去20年間に渡って脚光を浴びてきました」と述べられている。(p.130)
そう、ここ日本でも私が学んだ1970年代にそれぞれのアプローチが急速に入ってきたのを憶えている。そのうちいくつかは私も学んだし、それらを統合した操作的なアプローチも体験させてもらった。
どれもこれもカウンセリングや心理療法の世界で大変大事なテーマになっているところだ。近年ではその範疇(操作的か非操作的か)に簡単に入れられない「フォーカシング」が交流し盛んになってきていると思っている。
次節からはその定義に入っていく。Rogersはこの論文では共感的理解の再定義を行っている。楽しみである。
今回もほんと充実した話し合いが出来たこともうれしかった。思わず熱が入って話していた私があった。それぞれが体験的学習を通した味わいになっていることが意義深い。
次回は、5月9日(火)午後7時半~9時半。場所は当センター。(→参照)
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