4月法林寺輪読会-三人寄れば凡夫の知恵も満更でもない-
昨日は法林寺輪読会。道中新緑が目に染み始めていた。桜の花も散り、どんどん季節が移り変わっていっているのを改めて感じる。西光義秀『私のものさし 仏のこころ』探求社を読み進めている。今回読んだところは、「仏法の教えに従っていきる」(p.37-39)である。
正直混乱する私があってわかりにくかった。自分の思いが理解を邪魔するのであろうか。「ありのままの私」というのがいくつか出てきて、一方では全面的に肯定してくださり(p.38)、一方では肯定して下さっているのではありません(p.39)となっているからだ。うれしいことにこのグループはこの混乱している私をそれこそありのままに表現できた。みんなで話し合っていく内に次第に筋が見えてきた。
本文ではこうなっている。
p.38では「阿弥陀さまの願いはその私のありのままの姿を全面的に肯定し、そのままのすべてを引き受けて下さるのです。」となっている。
P.39では「阿弥陀さまは、この弥陀にすべてをまかせよと願い働いてくださっていますが、それはありのままの私自身を肯定してくださっているのではありません。ダメだからこの弥陀にまかせよというのが阿弥陀さまのお心です。」となっている。
つまりこのように理解出来るのだ。「ありのまま」には二相ある。ひとつはどうにもならない自分の執着心。小欲知足といってもそのようになれない私。その執着の自分がありままで、そこは阿弥陀仏はそのまま全面的に肯定して下さっている。
もうひとつは、阿弥陀仏は後生の一大事は我にまかせよと願われているのにそのおこころに全面的に任せることの出来ない自分。そこがありのままの自分である。
当然任せられない自分を肯定して下さっているのではない。そうであるからこそ私にまかせよというのが阿弥陀さまの大願なのである。
こんなふうに読めてきたのだ。ヤリトリするおかけで教えていただいた感じだ。
このことは「迷悟」、「信疑」といった真宗の一大事が見えてきた瞬間だと私には思えた。もっともこの「まかせよ」という言葉にはどうも馴染めない。「聞」、阿弥陀さまの願いを「聞き」それが即信となる。という言葉の方がぴったりくるのだ。さらにもっと言えば、「まかせよ」なんて悠長に上から目線でおっしゃっているのではない。私の中に飛び込んで「どうか聞いておくれ」と切に切に願われておられるのだといただくのである。
もうひとつの混乱はどう生きるかということである。一方では「小欲知足」であることはそうは簡単には出来ないこと。また一方では、「『小欲知足』や『和顔愛語』などは、この世での生き方を具体的に示されたお言葉といただける」(p.39)となっていること。ここはどう捉えたらいいのか。ちょっと戸惑ってしまった。
これもいろいろ話し合っていく内にひょっこり出てきたことは、普段私達はそのように自分を見ることが出来ていない、法座ではそう思えても日常生活ではそれはどこかへ行ってしまっている。けれども何かの拍子にふと自分に戻らせてもらう。それは間違いなくお念仏申させてもらうときがそうなのだ。とにもかくにもお念仏申させていただく。そのことによって自分に立ち戻らせていただけるし、そこに向かう弥陀の大願力に出遇わせてもらうのだ。
ということは真宗者の生き方は、「念仏申させていただく」ということに尽きるのではないか。
話し合いの面白さを改めて思った。「三人寄れば文殊の智慧」だ。もっとも文殊の知恵というより凡夫の知恵だが・・・。
この輪読会では気配りすることをも含めて自由に表現できている自分がある。ここがうれしい。もちろんそれなりにエネルギーは使うが・・。よい意味で。次回の5月24日(水)も楽しみである。
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