自分をやわらげていく場
しんどいことはそう迂闊に日常の場では話せない。そもそも秘密厳守が保証されるかもわからないし、受容的にじっくり聞いてもらえるとは限らない。これは批判しているのではない。
そもそも日常の場はそうだし、人々は他人の役に立ちたいと願っているし、けれども、ありのままの姿勢で、人の気持ちを無条件に肯定的配慮し、一旦自分を置いてその人の内的世界に入り込もうとして聞いていくなんてそう簡単に出来るものでもない。
カウンセリング場面はその密度をうんと高めた特別な場なのである。わざわざ場所と時間を区切り、有料で会うということはそれを保証するためにあるものだ。ちょうどICU(酸素テント)のように・・。そこにカウンセリングの意義がある。カウンセラーはそのために日々研鑽を重ねているのだ。
そんな中で来られた方は今まで閉じ込められていた微妙な感情が表出されていく。涙がこぼれる。そして悦びの表情を見せられていく。話す=放す。語る=カタルシス(ギリシャ語で解放)である。これはいわゆる治療とはまるで異なる場面だ。その人がその人になっていくそんな場だと改めて思う。人がその人自身に成っていく。自分を取り戻していく。
かつての私もそうだった。出会った先生に共感的に聞いてもらった時の感動は今もしっかり蘇ってくる。
こうやって言葉にしてしまうとどうも大仰になってしまうのが残念だ。ほんとアットホームで、くつろいで暖かい空間なのだ。しかも真摯な場だ。こんな場があちこちにあって気軽に利用できるような環境がこの日本に広がっていくことを望んでいる。ちょうど整体の場が広がって行っているように。
またカウンセリングというとどうしても病気を治す場というイメージが定着してしまった感もある。適切な言葉がないかといつも思う。もっとも英語のもともとのイメージは治療(セラピー)ではないのだけれど・・。
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