黒川昭登先生と心理社会療法
龍谷大学大学院時代の指導教授であった黒川昭登先生が3月3日に亡くなられました。90歳になられていたようです。ご冥福をお祈りいたします。
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龍谷大学大学院時代の指導教授であった黒川昭登先生が3月3日に亡くなられました。90歳になられていたようです。ご冥福をお祈りいたします。
マジョルカ・フォーラムボケはだいぶ収まってきた。しかし、まだまだこのフォーラムに参加している夢を見る。おもしろいのは、登場人物にカール・ロジャーズが出てきたりするのだが、すべてが日本語で話していることだ。ロジャーズって日本語が上手になっていっているなんて夢の中で思っている内に目が覚めるところがおもしろい。フォーラムでは、スペイン語、英語、ポルトガル語、ロシア語などなど、そして日本語が交錯するおもしろい場になっていた。いつもながらインパクトのある場だ。フォーラムのことをここに文章にしようと思うのだがこんな具合で、思いや気持ちは交錯するのだがまだまだ整理できないという状態だ。そんなこんな思っている内にCHODRの活動は続いていく。それについても書いておく必要がある。
5月の臨床ソーシャルワーク研究会。老人ホーム、児童養護施設に勤めるメンバが集まった。今回読んだところは、第4章の中から「ケースワークの定義」だ。
詳しくは、本書を読んでいただくのが一番。ここで外せないと思うのは、ケースワークには二重の焦点があると言うこと。一つは、「個人」、そしてもう一つは「個人をとりまく状況、あるいは環境」である。個人はかならずある状況のなかでいきている。ここでは「親子をはじめとする人間関係」、つまり社会関係が中心だ。その「状況」との相互関係において、そのあり方が決まってくる。この2つの焦点を持って介入していくのである。また、具体的な「問題」を取り扱うということも特徴だ。包括的な定義といわれるスーザン・パワーズのものを紹介する。
ソーシャルケースワークとは、人間関係の科学や人間関係の技術に関する知識を使用する技法であり、クライエントとその全体的環境のすべて、もしくはよりよい適応のために必要な個人の能力と社会資源を動員する技術である。
なんとなくわかるけれど、未だ抽象的なところもある。
次回は、黒川昭登氏の定義をじっくりと読むことになった。パワーズの定義よりもさらにわかりやすい表現になっている。これは次回のお楽しみということにしよう。
今月も本を読み進める。第4章。その中からいくつか・・。
欲求不満、不安を表出する3つのチャンネル。まずは、言語化。これはそのような情動を感じ取って言葉で誰かに伝えることだ。「恐い」、「腹が立つ」、「心配」・・・。そうすることでそのような不安がずいぶん軽減する。相手にもよく伝わる。これが一番健全な道だ。あと2つは不健全な方向での表出。ひとつは、行動化。盗み、非行、暴力、怠学、家出・・・。これを続けていっても問題解決にならないことはいうまでもない。もうひとつは、身体化。体の不調で訴える。腹痛、頭痛、嘔吐、下痢、便秘、発熱・・・。病院で診てもらったら身体的に異常がないのにこれらの症状が起きる。不登校の子ども達にはこれがある。毎朝体調不良で苦しむ。大人がこれに関心を持ってくれるとよいが、親も先生もたんなる口実だと思って本気にしないと子どもは次第に言わなくなる。人知れず悶々とする。痛ましいことだ。じんましん、アトピー性皮膚炎、喘息もこの身体化に入る。
そして、このような表出傾向が起きるには一定の人間関係、特に親子関係が背景にある。行動化は敵対的・攻撃関係。身体化は感情抑圧的関係、感情遮断的関係。そして、言語化の場合は、何でも気持ちが言える関係、一方的な支配にならない関係、つまり民主・許容的関係が存在する。この関係の中で人は気持ちを言葉で伝えるようになっていく。
ソーシャルワークをはじめとするこれらの専門的援助は、充分に保証されなかった民主・許容的関係をクライエントとの間に作りだし、これらを再保証することである。
これはソーシャルワークに特徴的なとらえ方である。人間の「生理的側面」、「心理的側面」、「行動的側面」、「社会的側面」が一体となって捉えられている。と同時に、極めて現実的である。実践をするとき、子どもの問題を見るとき、このとらえ方が問題解決にずいぶん役に立つ。
「個人」と「環境(この場合は人間関係を指す)」という2つの焦点を持ち、これらの「相互作用」を見ていく。これは心理学とも一味違う。最近の私はこのおもしろさに虜になっている。
今回も忙しい仕事の中からメンバーが集まってきた。みんな社会福祉の現場で働いている若い人達である。今後の活躍が楽しみ。と同時に、私自身も極めてやりがいを感じている。支えられているのである。終わった後に1人しみじみとこの感じを味わい、至福の時間をすごす。
黒川昭登 『臨床ケースワークの基礎理論』 誠信書房 P.100あたり
定例の第3木曜日。読んだところは、第4章「ケースワークの人間観」。思えば、この章にとどまっている。一度読んだのだがレジュメを作って読んだものではなかったので、もう一度挑戦。:ケースワーク実践の根本だからしっかり取り組むだけの価値はある。今回はレジュメが提出された。忙しい中からのきっちりしたレジュメは心を打つ。
今回は来ているメンバーのことを書いてみよう。トータルでは6名ぐらい。常時集まるのは、2人ないし3人。仕事を持っておられる。社会福祉の援助専門職をしておられる。中には学生の方もおられる。一度短大を卒業され、現場に出られて一念発起。この度四大を修了されようとしている。卒論提出が済み、ホッとされているところ。すでに大学院を受かっておられ、次への挑戦が始まろうとしている。すごい。
学習あるいは学問というものは学生時代ではなく、就職してからが本番だ。現場に出ていろんな現実にぶつかってその中から時間を割いて学問していく。これは、即、血となり肉となってまた日々の実践に役立っていく。自分も成長していく。これこそ本当の学問だ。誰が評価をするわけではない。自分の中から湧いてくる力によって学問が進んでいく。こういう学問こそ心から楽しい。もちろんしんどいときもあるがこの継続が人生を豊かにしていく。
思えば、私もそうであった。社会福祉施設を中心に勤めたけれど、カウンセリング(Rogers)の理論と体験学習を欠かしたことはなかった。楽しかったのだ。こういう醍醐味を教えてくださったのは学生時代に出会った先生だ。その先生も学問好きの方であった。先生から盗み、体得したことは計り知れないほど大きい。私はもう50を過ぎたけれど、まだまだ楽しみは続くぞ!
事例報告が終わり、今回はフリートーク。日々の実践について語り合う。メンバーは社会福祉施設に勤めている。日々の処遇実践が経験主義的で理論的基盤がなしに手探り状態であること。その突破はなかなか困難であることが話題になったと思う。自分たちの日々の研鑽が大事であることを痛感する。
また、次回からのこの研究会の方針を確認し合う。理論的研究、事例検討を下にした実践的研究などなどやりたいことがたくさんある。月一回という限られた時間で何を優先するか・・・。ともかくこの研究会の出発は臨床ケーワークについて知るということが目標で、黒川昭登『臨床ケースワークの基礎理論』を読んでいるので、それを続けていくことを確認。特に、レジュメを作ってきっちりと読むことを確認した。現場にいるこの時にこそ理論研究が大事になってくる。また、時に、事例も織り込みながらということになった。次回読む箇所は、継続中の第4章「ケースワークの人間観」である。事例に入るにしてもここを押さえておく事は必須になるので、詳しく読んでおくことが大事であることを伝えた。
次回は、第3木曜日、1月18日である。
時間が経ってからの報告になってしまった。今回も続けて事例を読む。小学校低学年の不登校カウンセリングの事例。添い寝、入浴、タッチングをお母さんに進めてもらう。その結果、子どもは元気になると同時に、赤ちゃん返りを始めた。お母さんのおっぱいをさわったり、顔を吸ったりするようになっていく。言葉も赤ちゃんのようになる。両親は驚かれるがこれが起きることがとてもよいことだと伝え、励ます。ここで切ってしまうと子どもはさらに傷つき、取り返しのつかないことになる。まさに新芽に木枯らしである。
一方、これはお母さんにも変化をもたらす。とてもしんどいのである。このしんどさがピークに達した時点で、カウンセラーとやりとりがあり、お母さんは自分の幼少時代を語られる。実は、母に甘えたことがなく、愛情って何なのかわからないのですとの述懐。どんどん話される。しかし、これが重要。充分に表出されるとお母さんの気持ちはずいぶん変わる。また子どもが受け入れられるようになりましたと述べられる。このような事があった後、子どもは登校を始めた。「もう大丈夫だ」と言った。
事例はここで終了。メンバー同士の話し合いとなる。子ども個体への視点なのか、母子関係等、親子関係によるものか。また、他の発達障害の子ども達への考察へも進んだ。関係か個体か・・・。大事な課題がそこに横たわっている。
今月の研究会は事例検討。私の事例を提出。話し合った。小学校低学年の不登校の事例。学校に行けない理由は身体症状にある。この子の場合、頭が痛くなる。特に、思い当たることが学校では起きていないのだけれど、登校の際に頭が痛くなる。また、発達面で遅れがある。特に、やりとりがうまくいかない。小学校低学年で起きる不登校は母子関係が大きく影響している。お母さんから離れることに不安が伴い、それが体の症状になって表れる。
では、なぜ不安が伴うのか。それは、乳児期にしっかりと母親との関係が出来ていなくて、この絶対依存の時期にしっかりと依存できていないからである。この事例の場合もそうだ。放っておけば子どもは育つと思っていたという。面接ではここのところを扱い、お父さん、お母さん、本児に来てもらって三者合同で話し合っていく。そして、タッチング、添い寝、入浴を進めていくのである。これはお母さんにしてもらう。お父さんではダメだ。お父さんはそれを理解して、支えてもらうようにお願いをする。そうすることで、足らなかった母子密着、絶対依存を再保証していくのである。
しかし、このことは意外に難しい。いろんな障害が出てくる。特に、お母さんが幼少時代にそのお母さんにしっかりと愛情を注いでもらえていないので、どうすることが子どもに愛情をかけることかが良くわからない。ここが大問題なのだ。面接では、お母さんの幼少期のつらかった気持ちを表現してもらうことがとても大事になってくる。この場合もそうだった。つらかった幼少期を涙と共に何度も語られた。そうすることで、子どもが受け入られるようになっていくのはとても不思議だ。
子どもは一直線に親から離れていくわけではない。むしろ、その逆で、お母さんに体をすり寄せたり、おっぱいを触ったり、赤ちゃん言葉になったりと大変である。赤ちゃんに帰っていくのである。退行という。子ども自身が「ぼく赤ちゃんに帰っていくの」というのがとても不思議である。しかし、この退行はそこにとどまっているものではない。こうして赤ちゃんに帰ると今度は元気になってくる。充分に戻ったらあっけないほどお母さんから離れていく。「お母さん、ぼく、もう大丈夫」と言った。秋には登校する運びとなった。
この面接の様子は克明に記録されているので、その記録を読みあうことで進めていった。面接の様子がリアルにわかって良い。かなり長い記録になるので、来月にまた続きを読んでいくことにした。詳しくは下記の本を是非読んで 下さい。
黒川昭登 『不登校カウンセリング』 朱鷺書房
7月の研究会を行った(20日)。今回は新しいメンバーが二人。旧知の人ではあったが、研究会は初めて。久しぶりの再開であった。
読んだところは、「第4章ケースワークの人間観」。ケースワークの独自性(個別化と心理社会的観点)。(p.93-98)それは、人間を個別的に生理的側面、心理的側面、社会的側面の全体に渡って把握し、アプローチていくところに特徴がある。他のアプローチは、心理的側面のみ、生理的側面のみ、社会的側面のみに焦点をあてて、分化して捉えるところに特徴がある。これらについて、不登校の事例をあげて理解していった。
まだまだ実際に即してピンと来ないところもあるので、次回では、面接事例をもとに学んでいくことにした
これは毎月第3木曜日に定期的に行っている。現在は社会福祉施設に勤める人達が中心になっている。黒川昭登氏の『臨床ソーシャルワークの基礎理論』誠信書房を輪読している。
今日読んだところは、「第4章ケースワークの人間観」である(臨床ソーシャルワークとケースワークを同義で捉えている)。「人間は無限に成長発展する意欲と可能性をそなえた存在である」、「アンビバレンスの概念」を読んだ。それぞれが現場で活躍している人達であるので、その体験とを照合させながら読んでいくことになった。日々の子ども達との接触で悩むことしきりであり、時には道筋を見失うこともある。意気消沈することもある。そんな中で、今日読んだところは埋もれがちになっていた一筋の道を再度見いだすことになったようだった。「まさにタイムリーだった」という参加者の言葉が印象に残っている。
本書の中の下記の言葉が深く印象に残った。
「人が問題をもち逸脱行動をするのは、人間がその本性において、このような「悪」の存在であるがゆえであろうか。実は人間は『よくなりたい』がゆえに「悪を犯す」のである。人は誰もがよくなりたいと念じている。なかに悪人がいるかに見えるのは、人間の本性である性『善』の発現を妨げるような内的、外的な障害の存在するがゆえである。」p.88
「人は、常に他人から尊敬され、愛され、認められたい、と思っている。また、自殺者にも葛藤や悩みから逃れて心の平安(死)をねがいつつも、それでもなお生への無限の執着がある。これらの人々には、よりよい人生を生きたいという根源的願望があるが、このような願望があるがゆえにこそ、それが挫折し、阻止されたことによって、彼は、自棄的となっている。従ってわれわれは、(略)クライエントに対してもっと『有意義に生きよ』と勧めることはない。ましてや、不正や悪を働き、怠惰に過ごすかに見えるクライエントに対しても、正しくあれ、勤勉たれ、と説教したり、助言したりすることもないのである。」p.89
「人には、常に意識的、無意識的に、ある一つの衝動があるとすれば、その背後に必ず正反対の衝動も存在する。非行をするのは、彼が100%非行の意志をもつがゆえではない。彼の心の奥底には、そのようなことをしていてもろくなことはない。自分が損をするだけである、という反対の意志もある。だが、それにもかかわらず、非行を犯しても解消しつくすことができないほどの爆発的な不満や復讐の感情があり、それが一つの意志となり、対抗意志を圧倒するがゆえに非行が起こるのである。」p.90
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