鈴木大拙『日本的霊性』-浄土教(真宗)の「信」が日本的霊性そのものである-
鈴木大拙師『日本的霊性』岩波文庫は本当に面白かった。自覚が深められた。これまた言葉にするのが難しい。それは「信」という深い個人的でありながらも普遍性を持つ体験と関わっているからだ。だから言葉にしないのも勿体ない。ひとまず書き記しておきたい。
鈴木大拙師『日本的霊性』岩波文庫は本当に面白かった。自覚が深められた。これまた言葉にするのが難しい。それは「信」という深い個人的でありながらも普遍性を持つ体験と関わっているからだ。だから言葉にしないのも勿体ない。ひとまず書き記しておきたい。
ハンドブックの文献調べをしていてあらためて伊東博氏の功績を思った。ロジャーズのパーソンセンタード・アプローチは東洋思想(特に老子)の影響がすごく見られるがそのことにいち早く気づき、その観点からカウンセラーの態度について説明しておられる。
D-pcaの実践をどのように言葉にして整理しようか。PCAと仏法(真宗)、そもそも根底的に異なるものを扱っている両者が交流しているD-pcaにおいてこれは私の課題であり続けている。あるひとつの感覚が確かにあるのだが言葉にするのは結構むずかしい。
ここで心にとまったのが西光義敞先生の「二重の配慮」あるいは「配慮の二重性」である。「心理的配慮」と「霊性的配慮」である。この二重の配慮がD-pca援助者に存在している。
もちろん以前から目にしていたものであるが、その時は、構造に目を向け「二重関係」ととらえていた。が、実践的な方向へ目を向けてみると「配慮」ということになる。今、ここで改めて私の心に止まった。
まずは、西光義敞『育ち合う人間関係-真宗とカウンセリングの出会いと交流』本願寺出版社 よりそのまま抜き書きする。今後稿を改めて自分の言葉で表現してみたい。
ここでは(ケン・ウィルバー「意識のスペクトル」において)ロジャーズの心理学が実存レベルの心理学として、また大乗仏教があらゆる二元論を超えた世界への霊的実践として、窮極的な位置づけがなされているのが興味をひく。(改行山下)
ここで「真宗カウンセリング」にとって、二つの課題が引き出される。一つは、ロジャーズのカウンセリングと大乗仏教や真宗との距離は何に由来し、何を意味するかという問題であり、他は、あらゆる二元論を超えるという大乗仏教の実践道は、現代および将来において、具体的にはいかなるものとして提示されるかという問題である。この二つの課題にたいして、理論的にも実践的にも明確な解答がひきだせたとき、「真宗カウンセリング」は確固とした存在意義を獲得することであろう。
(西光義敞『育ち合う人間関係』本願寺出版社 p.190より引用)
仏教をカウンセリングや心理療法の領域でとらえるなら、それは「法にもとづき、「法」を中心とし、窮極的には「法」を悟って「仏」に成ることをめざす実践道である。「仏」に成るとは、人間が人間以外の何かに成るのでなく、人間を超えて人間を貫く「法」にめざめることによって真の人間になるのである。
(西光義敞『育ち合う人間関係』本願寺出版社P.189より引用)
「法(Dharma)」は、釈迦牟尼仏の悟りの知恵によって明らかにされた無上正覚の内容とその教えであるが、言い方を変えれば、釈尊の悟りを実現させたダイナミックな真理そのものでもある。分別知を出ない人間の認識を超えた智慧と存在の実相とが一つになった不可思議の境地である。したがって、仏教の根本は「法」「悟り」「智慧(般若)」にある。
(西光義敞『育ち合う人間関係』本願寺出版社 p.188より引用)
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